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僕の肺移植ブログ

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肺移植

僕は肺移植レシピエント(臓器を提供された側)で、移植手術を受けてから5年以上が経ちました。

色々な思い出があるので、肺移植を受ける前、肺移植手術、免疫抑制剤を服用しながらのその後の経過等をブログとして書き残そうと思います。

肺移植を受けるまでの経緯

まず僕が肺移植を受けるまでの経緯ですが、突発性間質性肺炎という病気が原因で肺移植を受けることになりました。

この病気になるまでは普通に社会人生活を送っていましたが、健康診断でレントゲンを撮った際に医師から「大きく息を吸って再度撮ってください」と言われました。僕的にはちゃんと指示通りに撮ったのになぜだろうぐらいしか思ってませんでしたが、再度撮った時に医師から「肺が潰れているように見えるので、このレントゲン写真持って大学病院で一度見てもらってください」と紹介状をもらい、大学病院に行きました。

大学病院に紹介状を持ち込み、血液検査、CT、レントゲン、肺機能検査を行いましたが、体の外側からの検査のみでは病気がわからないとの診断だったので、手術で肺の検体を採取して、検体を調べましょうということになりました。

全身麻酔での胸腔鏡手術で肺の一部を切り取り、検体を調査専門の施設で調べることになりました。検査の結果、突発性間質性肺炎との診断結果が出ました。

突発性間質性肺炎とは、肺の組織が徐々に固くなり肺が膨れなくなる病気で、症状としては、少しの運動で息切れしてしまいます。美空ひばりもこの間質性肺炎で亡くなっています。

普通に社会人生活を送っていた僕ですが、突発性間質性肺炎によってどんどん肺は膨らまなくなり、駅の階段も少し登っては休憩しないと息が続かない状態になっていました。

診断から1年後、最終的には少しの坂道も登れなくなり、会社にも行けない体となっていました。

さらに症状は進行し、自宅に酸素を送る大きな装置を設置し、常に酸素を吸入しないといけない生活、外出も出来ずに毎日ゲームをして臓器提供をただただ待つ日々でした。

臓器移植希望の登録

少し時間は戻りますが、大学病院での手術による検体検査の結果を元に医師は第一の治療として、ピレスパ錠を試してみることにしました。

ピレスパという薬は、間質性肺炎の進み具合を防いでくれる効果があるらしいのですが、副作用として光線過敏症になることがあるとのことで、徹底的に紫外線予防をして通勤していました。

年中日傘、真夏でも長袖だったので男性だと特に目立っていたと思いますが、自分の体を守るために恥ずかしさは気にしないことにしました。

しかし、ピレスパは僕の間質性肺炎には効かなかったのです。しっかりピレスパを服用していても肺機能はどんどん低下していくのみ。

そこで医師から「あなたの病に対して治療方法はないので、肺移植を検討してください」と宣言されました。

僕は生きるためなら何でもすると決めていたので即決、担当医師からの移植施設へ問い合わせをしてもらいました。

肺移植を実施している病院は日本内では限られていて、その中の一つの病院でインフォームドコンセント(移植の説明と同意)を受けました。

インフォームドコンセントは、事前に状態の検査がありました。血液検査や、歩きながら体内の酸素濃度を測るなど。

臓器提供までいかない状態の方や、移植をしたとても手術に耐えられないなど、臓器提供の基準に至っていない場合は登録は出来ないようです。

そして僕は移植希望の登録を行いました。この登録が終わるとドナー(臓器移植提供者)待ちの状態となり、自身に合う臓器提供があった時にいきなり電話がかかってくることになります。

臓器提供待機期間は、提供される臓器の大きさや血液型など様々な要因で変わりますが、僕の場合は1年半で臓器提供、移植手術となりました。

残念ではありますが、臓器提供者が現れずに病状が進んでしまい亡くなる方もいるそうです。

肺移植手術当日

その日はいきなりやってきました。お昼頃に自宅の電話が鳴り「〇〇病院です。現在○○さんに合う臓器提供がありました。提供受けますか?」。

自分に合った臓器提供があった場合、提供を受けるか否かの返事をすぐにしなければ、他の臓器希望待機者に渡ります。

僕は臓器提供希望提供の登録から1年半経っていたので、突然の電話にかなり動揺してしまいましたが、生きるためには覚悟が必要。「受けます」と臓器提供を受けることを伝えました。

しかし動揺は止まらず、電話の後はご飯が全く喉を通らなかったことを鮮明に覚えています。すぐに入院の準備をして母と病院へ向かいました。

電話があったその日のうちに救急車に乗って入院(自分ではもう歩けなかったので)し、様々な検査を行ってあっという間に寝る時間に。

ドタバタな一日が終わり、翌日早朝から移植手術でしたが、なぜかこの頃には動揺も消え夜ぐっすり寝ることが出来ました。

翌日起きて、「さあ手術だ。あとは先生に身を任せるしかない。」と肝が座った自分がいました。

手術当日の朝、さっそく免疫抑制剤を飲みました。臓器移植をすると、自分の体ではない臓器に免疫反応を起こします。いわゆる拒絶反応です。この拒絶反応を起こさないようにする薬が免疫抑制剤で、術後にはもう拒絶反応が出るらしいので飲みました。

そして手術室へ。手術台に寝てしばらくすると「ゆっくり呼吸して息を吸ってください」と言われ、酸素マスクみたなものを口に当てられます。

2,3回呼吸したところで意識が無くなりました。

手術時間は10時間に及んだと後から聞きました。母は待合スペースでずっと待ってたらしく、気が気でない状態だったとこれも後から聞きました。

「○○さーん!手術終りましたよ!」肩を叩かれ起きた時にはICU(集中治療室)でしたが、麻酔が聞いて意識が朦朧としていたので、この時のことはほぼ覚えていません。

移植手術後の地獄

手術後、目を開けると暗い部屋で、周りを見ると両ももを抱え込んで寝る子どもたちがたくさんいて、隣にパソコンで何かを入力する研究員のような人がいました。

「あれ、自分はなんでこんなところにいるんだろう。。自分の体動かないし何がなんだかさっぱりわからないし怖い。。」と思いながらまた寝ました。

これは麻酔やICUの特殊な環境による幻覚だそうで、インフォームドコンセントで説明してくれていました。

最初の頃はこの他に赤ん坊の泣く声や、エアコンからたくさん虫が出てきたりしましたが、少し経つと「ああ、これは術後の幻覚・幻聴か」と思えるようになり、恐怖はなくなっていました。

完全にここはICUだと認識できるようになった頃、僕の口には人工呼吸器が入っていて、体には太い管が4本、小さい管は何本入ってるんだろうってくらいたくさんの管と機械に僕は繋がれていました。

母が術後にICUに来た時、僕がすごい状態だったので本当に助かるのか心配になり、血の気が引いたそうです。

管は刺さってるだけなのでそこまで気にならないのですが、人工呼吸器が幻覚・幻聴よりも辛いんです。肺移植は大きな手術なので、術後の肺機能はこの人工呼吸器に頼ります。

人工呼吸器は勝手に呼吸をしてくれるものなのですが、喉の奥、胃まで太い管が入っているような感覚で、まったく喋る事はできず、看護師さんに伝えたいことはホワイトボードに書きます。
しかし大きな手術の後寝たきりなので、ホワイトボードに書く筋肉もなくなり何も伝えることが出来ないのです。

例えば口に溜まった唾液を機械で吸ってほしいと思っても伝わらず、ストレスも溜まりますし口も苦しいんです。

人工呼吸器を外すにもいきなりは外すことはできません。呼吸するための筋肉が無くなっているため、呼吸筋を付けるリハビリをしなければなりません。

そしてこのリハビリが大変で、人工呼吸器のを少しの時間外してリハビリ器につなぐのですがこれが本当に苦しい。。

苦しいリハビリを毎日して、段々とリハビリ器での時間が長くなって初めて取れるかどうかの判断になるのですが、リハビリに耐えられない人だと首を切開してそこから管を入れることになります。

僕は首を切開するのが嫌だったので頑張ってリハビリしましたが、本当に地獄でした。

何日かリハビリをして人工呼吸器を外した日「自分で息が吸える!こんなに大きく吸える!」とすごく感動して泣いたことを覚えています。

今まで病気で深く呼吸できなく辛かった日々、大きな手術、辛いリハビリを耐えたので本当に感動しました。

人工呼吸器が外れた後のリハビリ

手術から人工呼吸器が外れたのが約10日ぐらいですが、ここまでの間は体が全く動かせないのですべての筋肉がゼロになった状態です。

術後からベッドを初めて上げてもらった時、首の筋肉がなくてベッドから首を上げることすら出来ませんでした。

トイレを含め、全ての行動は看護師さんの介助なくしては何もできない状態です。下着は大人用のオムツを履いていました。

人工呼吸器が外れてからは、理学療法士の方がICUに来てくれて少しずつ筋肉を取り戻すリハビリをしました。

飲み物・食べ物を飲み込む力もないし、スプーンを持つ筋肉もなかったので最初は本当にもどかしかったのですが、段々とできることが多くなりました。

術後20日ぐらいでやっと一人でベッドから立ち上がることに成功しましたが、まだまだ歩けはしなかったです。

リハビリで少し自分で出来ることが多くなってきたので、この頃からICUでの集中的な終わり一般の入院病棟へ移ることになりました。

ICUの看護師さん達は忙しいのに本当に優しく接してくれたので、一般病棟に戻る時は少し寂しかったです。

一般病棟でのリハビリから退院まで

ICUでの地獄の後の一般病棟は、何てことはない入院生活でした。

唯一痛かったことといえば、手術の傷跡を止めるホッチキス針みたいなものを抜く時ぐらいです。傷口が大きいので傷を止めているホッチキスを見て先生が「線路みたいだね」と仰ってました。

しばらく薬は点滴で管理されていましたが、1ヶ月を過ぎたあたりで点滴が外れたので、薬は処方された物を飲むようになったのですが、本当に量が多かったです。

自分で歩けるようになってからはリハビリ科に通い、階段を登る練習やストレッチから始め、最後はサイクルマシーンで20分程漕げるようになりました。元々運動が好きだったのでリハビリは苦ではありませんでした。

そして手術から約二ヶ月半で退院が決まりました。こんなに大きな手術なのに二ヶ月半で退院できるなんて、日本の医学ってすごいなと感慨深く思いました。

退院する際、ドナーになっていただいた家族の方への手紙を書きました。

手紙に私の個人情報を書くことは禁止、もちろん相手の家族の方の情報もわかりません。匿名を保つことで臓器提供の金銭トラブルを防ぐことが目的です。

臓器提供の家族の方の気持ちを考えながら手紙を書きましたが、脳死状態から臓器提供をする家族の方の気持ちを考えると、本当に胸がギュッとなり涙を流しながら感謝の気持ちを書き記したことを覚えています。

ドナーの方がどのような人なのかはわかりませんが、僕はその方の命をもらって生きているので感謝でしかありません。

ドナーの方へ届いてるかどうかはわかりませんが、胸に手を当てて「僕に肺を提供してくれてありがとうございます」と声に出して言ってみたりしています。

退院後の生活について

移植後に一番気をつけなければならないことは、感染症です。

移植をした場合、免疫反応を抑えるために一生免疫抑制剤を服用しなければなりませんが、その名の通り免疫を弱めるので感染症にかかりやすく、風邪などにかかった場合治りにくい体になります。

手洗い・マスク・うがいは基本ですが、僕はなるべく人混みを避けるようにしています。

また、免疫抑制剤は人によって効き目が違うので普通の薬のように「大人朝○錠服用」のような飲み方ではなく、血液検査で血液中にどれだけ薬が入っているかの血中濃度検査によって免疫抑制剤の量が決まります。入院中は何度も採血を行い、自分に合う量の免疫抑制剤を調整していきます。

血中濃度は常に変化するので、毎月病院に通い採血をして免疫抑制剤の量を調整して処方してもらっています。

免疫抑制剤は副作用の大きな副作用としては免疫低下ですが、他にも様々な副作用があるので、副作用のための薬を飲むことになります。

僕が飲んでいる薬としては、感染症予防のための抗生物質、胃が荒れるのを抑える胃薬など様々で、一日に10種類以上の薬を飲んでいます。でも薬を飲むことが既に習慣になっているので、全く苦ではありません。

以上のことを守れば、基本的に一般の方と同じような生活を送ることができます。

さいごに

肺移植をしてから5年以上経ち、毎日たくさんの薬を服用しながら日々を送っていますが、今の自分は病気の時と比べてはるかに自由な生活を送ることが出来ています。

臓器を提供してくれたドナーの方への感謝もそうですが、病院スタッフの方、家族へも数え切れない感謝の気持ちでいっぱいです。

僕が生きるために提供された臓器なので、これからも大切に生きたいと思います。